文字禍/中島敦

青空文庫にて、中島敦『文字禍』 を読了しました。

 古代アッシリヤ、ニネヴェの図書館で夜な夜な、精霊達の怪しい話し声が聞こえるという噂がたちます。アシュル大王は老博士のナブ•アヘ•エリバ博士に、この未知の精霊について調べるよう命じます。図書館の書物(当時は瓦)に日夜目を通しているうち、ナブ博士は不思議な事柄を体験し…

 中島敦の、伝奇モノに近い形の小説。『山月記』『李陵』『名人伝』と、古代中国を舞台にしたものは読んだ事があるのですが、次読んだこの小説がいきなりアッシリヤの話になり新鮮でした。文体はまさしく中島敦そのものでしたので安心しましたが、横文字の登場人物はどうも頭に入りづらいです(とはいえ、主要人物は数人ですが)。18ページですが文章の一つ一つが濃いですね。文字の霊を研究する老博士が、研究をすすめていくにつれて自分自身がその文字の霊に囚われていく様を、中島敦特有のテンポの良さで連ねて行く面白い話でした。短いながら、ギュっと絞った果汁のような濃い旨味のある小説です。

(以降は内容に言及するためネタバレがあります。)


 ナブ博士は書物に目を通しているうち、いわゆる『ゲシュタルト崩壊』を体験します。

…いつしかその文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなってくる。…(中略)…単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味をも有たせるものは、何か? ここまで思い到った時、老博士は躊躇無く、文字の霊の存在を認めた。…

 博士はまた、研究を進め人々から文字に関する話をきき、ある仮定を導きだします。

 埃及人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。
 獅子という字は、本物の獅子の影ではないのか。それで、獅子という字を覚えた猟師は、本物の獅子の代りに獅子の影を狙い、女という字を覚えた男は、本物の女の代りに女の影を抱くようになるのではないか。…(中略)…文字の無かった昔(中略)には、歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいって来た。今は、文字の薄被(ヴェイル)をかぶった歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。…(中略)…人々は、もはや、書きとめておかなければ、何一つ憶える事が出来ない。…

 文字を憶える事で、人々が弱くなったと老博士は結論づけます。それもまた、文字の霊の仕業(『媚薬の如き奸猾な魔力のせい』)であると。確かに、文字がなければその全てを頭の中に記憶するしかありませんからね。この下り、ぼくは最近はやりのGTDとか(何年後の話だ)を思い起こしました。GTDは頭の中の事象をもれなく書き出すことで、頭の中を空っぽにしてスッキリした状態で仕事をする、とかのテクニックだったと思うのですが、博士によればそんな事は言語同断なのでしょうね。あえて頭の中に物事を詰め込む事で、複雑な思考が可能と成る…そういう一面もあるでしょう。

 面白いのは、中盤における、歴史についての博士の言論です。このあたりから、博士がいよいよ文字の霊に取り憑かれてきているのですが、若い歴史家との討論の間で、博士はこう言います。ここの下りは特に面白いです。

 歴史とは、昔在った事柄で、かつ粘土板に誌されたものである。…

 …(中略)…

 書き漏らしは?と歴史家が聞く。

 書き漏らし?冗談ではない。書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。

 …(中略)…

 …古代スメリヤ人が馬という獣を知らなんだのも、彼等の間に馬という文字がなかったからじゃ。この文字の精霊の力ほど恐ろしいものは無い。君やわしらが、文字を使って書きものをしとるなど思ったら大間違い。わしらこそ彼等文字の精霊にこき使われる僕下じゃ。…


 書かれなければ歴史ではない。これは、ある意味その通りで、ハっとさせられる下りです。歴史は勝者のためにある、という言葉がありますが、書かれた、記録されていることは、どこか無防備に信じてしまうことがあります。書かれることでその事象が『不滅の生命を得る』かのごとく振る舞い、反対に、書かれなかったものは『いかなるものもその存在を失わねばならぬ』のです。それこそが文字の霊の力であると。そういう博士の言論には、説得力があります。

 ちょっとたとえが違うかもしれませんが、感情や想い、望みなどは書く事でその実現に近づくといった、これまた最近の自己啓発本ではよく見る理屈ですが、なるほど文字にした事柄には不思議と何かしらのちからが宿っているように思う事もありますね。


 クライマックスは、ゲシュタルト崩壊が文字以外にも侵蝕し始めてしまうという、伝奇チックな展開に。まさに、ミイラとりがミイラ、ではありませんが、文字の霊を研究するうちに文字の霊に取り憑かれてしまった、文字の禍でその身を滅ぼされていってしまいます。この辺りの侵蝕具合がまた、テンポがよくて面白いです。ラストもまさに文字禍というにふさわしいものに。