春は馬車に乗って/横光利一

春は馬車に乗って/横光利一 を青空文庫で読了しました。短いのですぐ読めます。

 病に臥せている妻を看病する夫の物語です。最初彼は、彼女と付き添って来た人生に苦痛しかなかった事を呪い、怒りを隠そうともせず愚痴をいいながら看病をしていきます。妻も元気なうちは、彼に対して看病の有り難みを言葉に出さず、文句ばかりいう。夫婦喧嘩が続きますが、だんだんと彼女の容態が重くなるにつれて、二人の関係と心境がじわりじわりと変化していきます。その変化が痛々しくも、優しい時間を感じさせます。だんだんと諦念していく夫と妻の心境と関係性、そこに季節の移り変わりの描写が重なり、なんとも言えない切ない味わいがあります。

(以下、作品内の描写に言及するためネタバレを含みます。)

 彼は自分に向って次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思ったことはまだなかった。このそれぞれに質を違えて襲って来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於て働いていたように思われたからである。彼は苦痛を、譬(たと)えば砂糖を甜(な)める舌のように、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやろうと決心した。そうして最後に、どの味が美味(うま)かったか。 ——俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先(ま)ず透明でなければならぬ。と彼は考えた。

この下りは妙味があり美しいです。「砂糖のように苦痛を味わってやろう」と考えているという彼。そうやって意気込んでいる彼にも次第に余裕がなくなってきます。喧嘩や衝突が続き、彼はなんとか、暴力的な言葉の末端に愛情を伝えようとします。しかし皮肉にも、そういった喧嘩による興奮の副産物として妻の容態は加速度的に悪くなって行ってしまいます。彼にとって看病は、辛いものです。彼の大変さをなかなか言葉に出して感謝の気持ちを伝えてくれない妻。それでいてなお、彼は、こう思います。

しかし、彼はこの苦痛な頂点に於いてさえ、妻の健康的な時に彼女から与えられた自分の嫉妬の苦しみよりも、寧ろ数段の柔らかさがあると思った。してみると彼は、妻の健康な肉体よりも、この腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与えられていると云うことに気がついた。

この下りは、悲しみと喜びがないまぜになっていて感動します。彼女に尽くしている時こそ、幸福を感じるという。これが愛情でなくてなんだというのでしょうか。一見すれちがい、争っている二人。でも本当は、二人ともお互いの気持ちは分かっているのだと思います。

季節と想いが次第に移り変わり、完全に死の準備をしてしまった二人に最後、春がやってきます。馬車が春を連れてくるのです。際の頃においてやってくる優しい季節の便りは、喜ぶべき事なのか、それとも残酷なことなのか…。二人は素直に、春が来た事を喜びます。その描写がなんとも美しく切なく、ただ胸を打ちます。

厳しくも、優しい時間の中の夫婦愛。さめざめと泣きました。